【ふたりといた時間】第32話:ぶんの声が遠く感じた日

はなとぶんの時間

夜、ふと目が覚めた。
それは、どこか遠くから聞こえるような、ぶんの鳴き声だった。

——いつもの巡回。
毎晩、相変わらずぶんは家の中をぐるっと歩きながら、「んあお〜ん」と狼みたいに鳴く。
まるで家全体に「見守ってるよ」と言っているみたいに。

でも、その夜の声は、なぜか遠く感じた。
耳には届いているはずなのに、心には届かないような、静かな鳴き声だった。

少しだけ小さくて、少しだけ寂しげで。
——きっと、それは私の心がそう聞かせたのかもしれない。
心にかかる霧みたいなものが、ぶんの声の輪郭をぼやけさせていた。

はなの体調は、日に日に変わっていった。
変わるというより、“少しずつ削られていく”というほうが近い。

ごはんの時間になると、まだ反応はある。
カリカリも、おいしーのも、ほんの少しずつだけど口に運んでくれる。

でも、食べ終わるとふらついて、その場に吐いてしまう。
いつもならぴょんと飛び乗っていた押し入れのベッドにも、今ではもう届かない。

ジャンプして入り損ねたはなが、そのまま押し入れの中に倒れ込んだ。
ぶつけたのか、驚いたのか、はなは突然、泣き叫んだ。

「にゃあおオ〜〜ん!」

小さな体から、こんなに大きな声が出るなんて——
私はすぐに駆け寄り、震える体を支える。

あの日と同じように、そっと撫でながら何度も声をかけた。

『大丈夫、大丈夫だよ、はな』

この言葉を何度も繰り返しているのは、はなを安心させたいからなのか。
それとも、自分に言い聞かせたいからなのか。
その境界が、だんだん分からなくなっていく。

亜希子さんに相談して、点滴は毎日にしてもらうことにした。
毎日、少しずつ体に水分と薬を入れていく。

はなは、もう針を刺されるのにも慣れたみたいで、
じっと、おとなしく受けてくれるようになった。

そして点滴が終わると、決まって私のそばにやってきて、ぴょこんと座る。
まるで、「終わったよ」って報告するように。

そのあと、コテンと横になって、静かに眠りはじめる。

その姿を見て、亜希子さんがぽつりとつぶやいた。

「……ほんと、相思相愛だね」

私は笑ってうなずいたけれど、
その言葉の重さに、胸がぎゅっと締めつけられた。

はなの目に映る世界は、今、どんなふうに見えているんだろう。
私の姿も、ぶんの姿も、ちゃんと見えているのかな。
声は、まだ届いているのかな。

もし、この世界が少しずつ遠ざかっているのだとしたら——
せめてその時間を、安心で満たしてあげたい。
不安や痛みが、少しでも少なくあってほしい。

私は、今日もそっとつぶやいた。

『大丈夫だよ、はな』

それが、祈りではなく、誓いになるように。

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