🟥第4章:旅立ち、そして希望(36〜48話)
まだ、朝の空気が冷たい時間だった。
私は目をこすりながら、いつものようにこたつの中をのぞいた。
『はな…?』
最近のはなは、いつもこたつで丸くなっているはずだった。
だけど、その姿が、そこにはなかった。
部屋の隅。
壁の方を向いて、はながスフィンクス座りをしていた。
背中をこちらに向けたまま、ぴくりとも動かない。
でも、明らかに体が上下している。
耳を澄ますと、ゼェゼェゼェ……と、かすかに息の音が聞こえた。
——まるで、マラソンを走りきったあとのような呼吸だった。
『はな?…はな、大丈夫?』
私は急いで近づいて、そっと背中に手を添えた。
骨が浮き出た背中は、思ったよりも冷たくて、どこか切なかった。
それでも、はなはその場を動かない。
私に体を預けるでもなく、逃げるでもなく——
ただ、目だけを、私の方に向けてきた。
振り返ることなく、それでもちゃんと、目が合った。
その瞳にある静かな意志が、まっすぐに伝わってきた。
——これは、ただ事じゃない。
私はすぐにスマホを手に取った。
『亜希子さん……今、大丈夫ですか?』
声が震えていた。
だけどその時、電話の向こうから返ってきた言葉は、思いがけないものだった。
『今から向かうところなの。点滴、持っていくよ』
そのひとことに、胸の奥がじわっと熱くなった。
ほんの偶然?
でも——たぶん、はなが呼んだんだ。
亜希子さんはすぐに駆けつけて、はなの様子を静かに見てくれた。
「今日は…ついていてあげたほうがいいね」
私が今日、仕事があることを知っている亜希子さんは、優しい声で言ってくれた。
「私が、はなちゃんを見ているから。たつやさんは、いつも通り出かけて」
『すみません……。はなが大変なのに…私は“猫のことで休む”って、言いにくいなんて……』
「それでいいじゃない」
亜希子さんは、少し微笑んで続けた。
「でも——きっと誰にも言えないから、あなたは一人で抱えてしまうんでしょう?
だから、今日という日をちゃんと終わらせて帰ってきて。
はなちゃんのことは、私に任せて」
私は泣きそうになりながら、うなずいた。
『すぐに、すぐに終わらせて帰ってきます。
何かあったら、すぐに連絡をください』
はなはその間も、じっと壁を見つめていた。
まるで、何かを見届けるように——ただ、そこにいた。
私はもう一度、そっと撫でて声をかけた。
『行ってくるね。……すぐ帰ってくるから。待っててね』
そのとき、はなの耳が、ぴくりと動いた。
そして私は、玄関を出た。
ドア向こうに、これまででいちばん長い一日が、静かに始まる。
——次回へつづく。

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