【ふたりといた時間】第38話:初めて聞いた声

はなとぶんの時間

玄関のドアを開けた瞬間、私は靴を脱ぐ間もなく、はなのもとへ向かっていた。

こたつの隅。
奥まった、誰の手も届きにくいその場所に、はなはぐったりとスフィンクス座りしていた。
まるで、そこだけ空気の流れが止まっているように——静かに、ただそこにいた。

「たつやさん、おかえりなさい」

亜希子さんが、そっと私の顔を見てうなずく。

「お昼過ぎから容態が変わったの。目も、もうほとんど見えてないと思う」

はなは、小刻みに肩を上下させながら、呼吸をしていた。
周囲で物音や気配がすると、じっと構えたまま、空間を探るように首を動かしていた。
そして、私の気配に気づいたのか、はなはこちらを向いた。

『……はな、帰ってきたよ』

私はそっと声をかける。けれど、はなの目と私の目の焦点は合わない。
それでも、はなのその姿を見た瞬間、私は思わず胸を撫で下ろしていた。

なぜなら、最期に——間に合ったと思えたから。

『はな……待っててくれて、ありがとう』

私が安堵と悲しみに包まれているとき、亜希子さんがそっと口を開いた。

「猫ってね、旅立つとき、自分の体の中をきれいにしてから逝くの。
吐いたり、トイレに行ったりするかもしれない。
それが“最後だよ”っていう、合図なのかもね」

そう言ってから、私の肩に手を置き、静かに微笑んだ。

「バトンタッチ。あとは、お願いね。ぶんはもう“おいし〜の”食べたから〜」

——そうして、私とはなと、ぶんの最後の時間が始まった。

だけどその空間に、ぶんの姿はない。

あんなに、はなのそばに寄り添っていたぶんが——
その夜は、“おいし〜の”を食べたあと、静かに別の部屋へ移っていった。
それっきり、こたつにも、私のそばにも近づかなかった。

付きっきりだった私は、その時、ぶんのことを気にかける余裕さえなかった。
でも、今になって思い出す。

——きっと、ぶんはわかっていたのかもしれない。

はなが、ひとりで過ごしたいこと。
あるいは、私とはなの世界に、そっと身を引いていたのかもしれない。

その優しさに、私は気づき、静かに涙した。

この日は、時間の感覚なんてもう曖昧だった。
ただただ、私ははなの隣に寝そべり、そっと寄り添って過ごした。

『はな?……はな』

『絶対、忘れない。はなのこと、絶対に忘れないからね』

——何を言ってるんだろう、私。
そう思いながらも、不思議と自然に言葉がこぼれていた。

どれくらいそうしていただろうか。
はなは、前足を必死に動かして、私の腕にちょこんと身体を寄せてきた。

小さく、細く、そして妙に冷たい身体。
それはもう、声にならない「甘えたい」のサインだったのかもしれない。

私は、その身体を静かに支えつづけた。

——そして。

それは、突然だった。

「…………ぁ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ」

聞いたことのない声だった。
いや、“声”と呼んでいいのかも分からない。
喉の奥からしぼり出すような、叫ぶような、苦しみの塊みたいな音。

その直後、はなはふらりと立ち上がって、こたつの外へ出た。
そして、思いきり吐いた。

一瞬こたつに戻ろうとするが、すぐにまた立ち上がる。
今度は——トイレへ行こうとしているのが、はっきり伝わってきた。

私はすぐに手を添えて、ふらつく身体を支えながらトイレへ誘導した。

用を足したその瞬間。

はなは、大きく、一度だけ深い息を吸い込んだ。

「すう〜〜〜」

まるで、この世の空気すべてを抱え込もうとするような、一呼吸。
その直後——

「うお〜ああああああん」

と叫んで、ばたばたと暴れ出した。

見えない。何も分からない。
何が起きているのか、どこにいるのか、なぜこんなにも苦しいのか——
きっと、こわかったんだと思う。

私は、とっさにその身体を強く抱きしめた。

『もう大丈夫。はな、大丈夫だよ……怖くない、怖くないよ。よく頑張ったね、はな』

何度も、何度もくり返しながら、暴れるはなを腕の中で包み込んだ。

その小さな体は、水の中でもがくように、私の腕の中でも必死に動いていた。

——そして、その数秒後。

はなは、私の腕の中で、静かに、旅立った。

その時。

「にゃー……」

と、か細く、遠慮がちに鳴きながら、ぶんがそっと現れた。
はなを抱いた私のそばを、ぐるぐると小さく回るように歩いて——
私の手に、そっと頭をスリスリし始めた。

まるで「ぼくも、ここにいるよ」と言うように。

でも、はなはもう鳴かない。
動かない。

「たっちゃ〜ん」って呼んでくれた声も、
「おいし〜のちょうだい」とせがんだ目も、
「ほら、猫じゃらしで遊ぼうよ」って伸ばしてくれた前足も——

もう、そこにはない。

こうして、はなはこの世界から旅立っていった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました