玄関のドアを開けた瞬間、私は靴を脱ぐ間もなく、はなのもとへ向かっていた。
こたつの隅。
奥まった、誰の手も届きにくいその場所に、はなはぐったりとスフィンクス座りしていた。
まるで、そこだけ空気の流れが止まっているように——静かに、ただそこにいた。
「たつやさん、おかえりなさい」
亜希子さんが、そっと私の顔を見てうなずく。
「お昼過ぎから容態が変わったの。目も、もうほとんど見えてないと思う」
はなは、小刻みに肩を上下させながら、呼吸をしていた。
周囲で物音や気配がすると、じっと構えたまま、空間を探るように首を動かしていた。
そして、私の気配に気づいたのか、はなはこちらを向いた。
『……はな、帰ってきたよ』
私はそっと声をかける。けれど、はなの目と私の目の焦点は合わない。
それでも、はなのその姿を見た瞬間、私は思わず胸を撫で下ろしていた。
なぜなら、最期に——間に合ったと思えたから。
『はな……待っててくれて、ありがとう』
私が安堵と悲しみに包まれているとき、亜希子さんがそっと口を開いた。
「猫ってね、旅立つとき、自分の体の中をきれいにしてから逝くの。
吐いたり、トイレに行ったりするかもしれない。
それが“最後だよ”っていう、合図なのかもね」
そう言ってから、私の肩に手を置き、静かに微笑んだ。
「バトンタッチ。あとは、お願いね。ぶんはもう“おいし〜の”食べたから〜」
——そうして、私とはなと、ぶんの最後の時間が始まった。
だけどその空間に、ぶんの姿はない。
あんなに、はなのそばに寄り添っていたぶんが——
その夜は、“おいし〜の”を食べたあと、静かに別の部屋へ移っていった。
それっきり、こたつにも、私のそばにも近づかなかった。
付きっきりだった私は、その時、ぶんのことを気にかける余裕さえなかった。
でも、今になって思い出す。
——きっと、ぶんはわかっていたのかもしれない。
はなが、ひとりで過ごしたいこと。
あるいは、私とはなの世界に、そっと身を引いていたのかもしれない。
その優しさに、私は気づき、静かに涙した。
この日は、時間の感覚なんてもう曖昧だった。
ただただ、私ははなの隣に寝そべり、そっと寄り添って過ごした。
『はな?……はな』
『絶対、忘れない。はなのこと、絶対に忘れないからね』
——何を言ってるんだろう、私。
そう思いながらも、不思議と自然に言葉がこぼれていた。
どれくらいそうしていただろうか。
はなは、前足を必死に動かして、私の腕にちょこんと身体を寄せてきた。
小さく、細く、そして妙に冷たい身体。
それはもう、声にならない「甘えたい」のサインだったのかもしれない。
私は、その身体を静かに支えつづけた。
——そして。
それは、突然だった。
「…………ぁ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ」
聞いたことのない声だった。
いや、“声”と呼んでいいのかも分からない。
喉の奥からしぼり出すような、叫ぶような、苦しみの塊みたいな音。
その直後、はなはふらりと立ち上がって、こたつの外へ出た。
そして、思いきり吐いた。
一瞬こたつに戻ろうとするが、すぐにまた立ち上がる。
今度は——トイレへ行こうとしているのが、はっきり伝わってきた。
私はすぐに手を添えて、ふらつく身体を支えながらトイレへ誘導した。
用を足したその瞬間。
はなは、大きく、一度だけ深い息を吸い込んだ。
「すう〜〜〜」
まるで、この世の空気すべてを抱え込もうとするような、一呼吸。
その直後——
「うお〜ああああああん」
と叫んで、ばたばたと暴れ出した。
見えない。何も分からない。
何が起きているのか、どこにいるのか、なぜこんなにも苦しいのか——
きっと、こわかったんだと思う。
私は、とっさにその身体を強く抱きしめた。
『もう大丈夫。はな、大丈夫だよ……怖くない、怖くないよ。よく頑張ったね、はな』
何度も、何度もくり返しながら、暴れるはなを腕の中で包み込んだ。
その小さな体は、水の中でもがくように、私の腕の中でも必死に動いていた。
——そして、その数秒後。
はなは、私の腕の中で、静かに、旅立った。
その時。
「にゃー……」
と、か細く、遠慮がちに鳴きながら、ぶんがそっと現れた。
はなを抱いた私のそばを、ぐるぐると小さく回るように歩いて——
私の手に、そっと頭をスリスリし始めた。
まるで「ぼくも、ここにいるよ」と言うように。
でも、はなはもう鳴かない。
動かない。
「たっちゃ〜ん」って呼んでくれた声も、
「おいし〜のちょうだい」とせがんだ目も、
「ほら、猫じゃらしで遊ぼうよ」って伸ばしてくれた前足も——
もう、そこにはない。
こうして、はなはこの世界から旅立っていった。

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