【ふたりといた時間】第41話:離れても、そばに

はなとぶんの時間

ぶんは、あれからもずっと、静かだった。
いつものようにソファで丸くなり、押入れにこもって昼寝をし、
ごはんの時間には「にゃあ」と小さな声で私を呼んだ。

ぶんとふたりの暮らしにも、少しずつリズムが生まれていた。
確かに“ひとり”になったはずなのに、その中に自分なりの居場所を見つけ、
どこか満ち足りたような顔で過ごしていた。

——そう、私は思っていた。

そんな日々が続いた、数週間が過ぎたころのことだった。

ぶんが、ごはんを食べたあと、少しだけ吐いた。

最初は、気にも留めなかった。
猫はよく吐く。毛玉だったり、ちょっとした消化の乱れだったり。
はなもそうだったし、これまでも何度かあったことだった。

けれど、その頻度は、日を追うごとに少しずつ、確実に増えていった。
そしてある朝——ぶんは、ごはんの前に座ったまま、一口も食べなかった。

『……また、あの時のように』

はなの最期が、頭をよぎった。
吐きながら、やせ細っていく姿。
体力が落ち、歩くのもやっとで、目が見えなくなっていくあの姿が、ぶんと重なった。

私はすぐに、亜希子さんに診てもらった。

検査の結果、視力が落ちてきていることが分かった。
食後の嘔吐は、消化機能の低下や、喉にヘルペスがある可能性もあるという。
定期的な点滴治療が必要なこと、そして、はながいなくなったことによる精神的なストレスも——

『気づいてあげられなくて……ごめんね、ぶん』

悔やんだ。
もっと早く気づけていたら。
もっと早く、苦しみの前に寄り添えていたら。
「自由にのびのび生きている」と思っていたその影で、
ぶんは静かに、何かとたたかっていたのかもしれない。

私は、あのときの悔しさを忘れていなかった。
はなのときに感じたあの想いを、もう繰り返したくなかった。

だから、悩みに悩んで——
私は「亜希子さんにぶんを預ける」という選択をした。

物理的には、ぶんと“別々の生活”になる。
けれど、それは見捨てることでも、手放すことでもない。
ぶんがちゃんとケアされ、苦しまずに過ごせるようにするための、私なりの“優しさ”だった。

『ごめんね、ぶん……』

キャリーの中で小さく丸くなったぶんは、静かだった。
不安そうでもなく、怒ってもいなくて、ただ、私の顔をじっと見上げていた。

その瞳が、何を語っていたのかは分からない。
でも、あの澄んだ目は——責めるでもなく、ただ「……わかったよ」と言ってくれていた気がした。

ぶんは、自分たちが生まれた場所——
亜希子さんの家で、もう一度暮らすことになった。

窓越しに、私を見上げるぶんに、私は手のひらをそっと添えて言った。

『すぐ戻ってくるからね。
絶対、迎えに来るから。
だから、それまでちゃんと元気でいてね——ぶん』

その声に、ぶんは目を細めて、小さく「にゃ」と鳴いた。

たった一声。
それだけで、私はすべてを託すように、静かにうなずいた。

——離れても、そばにいる。
ぶんと私の、別々の暮らしが、こうして始まった。

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