ぶんは、あれからもずっと、静かだった。
いつものようにソファで丸くなり、押入れにこもって昼寝をし、
ごはんの時間には「にゃあ」と小さな声で私を呼んだ。
ぶんとふたりの暮らしにも、少しずつリズムが生まれていた。
確かに“ひとり”になったはずなのに、その中に自分なりの居場所を見つけ、
どこか満ち足りたような顔で過ごしていた。
——そう、私は思っていた。
そんな日々が続いた、数週間が過ぎたころのことだった。
ぶんが、ごはんを食べたあと、少しだけ吐いた。
最初は、気にも留めなかった。
猫はよく吐く。毛玉だったり、ちょっとした消化の乱れだったり。
はなもそうだったし、これまでも何度かあったことだった。
けれど、その頻度は、日を追うごとに少しずつ、確実に増えていった。
そしてある朝——ぶんは、ごはんの前に座ったまま、一口も食べなかった。
『……また、あの時のように』
はなの最期が、頭をよぎった。
吐きながら、やせ細っていく姿。
体力が落ち、歩くのもやっとで、目が見えなくなっていくあの姿が、ぶんと重なった。
私はすぐに、亜希子さんに診てもらった。
検査の結果、視力が落ちてきていることが分かった。
食後の嘔吐は、消化機能の低下や、喉にヘルペスがある可能性もあるという。
定期的な点滴治療が必要なこと、そして、はながいなくなったことによる精神的なストレスも——
『気づいてあげられなくて……ごめんね、ぶん』
悔やんだ。
もっと早く気づけていたら。
もっと早く、苦しみの前に寄り添えていたら。
「自由にのびのび生きている」と思っていたその影で、
ぶんは静かに、何かとたたかっていたのかもしれない。
私は、あのときの悔しさを忘れていなかった。
はなのときに感じたあの想いを、もう繰り返したくなかった。
だから、悩みに悩んで——
私は「亜希子さんにぶんを預ける」という選択をした。
物理的には、ぶんと“別々の生活”になる。
けれど、それは見捨てることでも、手放すことでもない。
ぶんがちゃんとケアされ、苦しまずに過ごせるようにするための、私なりの“優しさ”だった。
『ごめんね、ぶん……』
キャリーの中で小さく丸くなったぶんは、静かだった。
不安そうでもなく、怒ってもいなくて、ただ、私の顔をじっと見上げていた。
その瞳が、何を語っていたのかは分からない。
でも、あの澄んだ目は——責めるでもなく、ただ「……わかったよ」と言ってくれていた気がした。
ぶんは、自分たちが生まれた場所——
亜希子さんの家で、もう一度暮らすことになった。
窓越しに、私を見上げるぶんに、私は手のひらをそっと添えて言った。
『すぐ戻ってくるからね。
絶対、迎えに来るから。
だから、それまでちゃんと元気でいてね——ぶん』
その声に、ぶんは目を細めて、小さく「にゃ」と鳴いた。
たった一声。
それだけで、私はすべてを託すように、静かにうなずいた。
——離れても、そばにいる。
ぶんと私の、別々の暮らしが、こうして始まった。

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