ぶんのいない朝。
家の中は、いっそう静かだった。
ソファに毛玉は落ちていない。
押し入れを開けても、ぬくもりはどこにも残っていなかった。
——そこに、はなもぶんはいないのだと、改めて思い知らされる。
私は、週に1度、ぶんのいる亜希子さんの家へ通うようになった。
少しでも『そばにいるよ』と感じてくれたら、それだけでよかった。
会える時間は短くても、せめて私の声や匂いだけは、忘れないでいてほしかった。
『これ、使ってください』
私は、ぶんがよく甘えていたときに羽織っていたパーカーをそっと差し出した。
私の匂いが、しっかりと染み込んでいる服。
「ありがとう。きっと安心できると思うわ」
亜希子さんは優しく微笑みながら、パーカーを小さなベッドに敷いてくれた。
けれどその日は、ぶんは姿を見せなかった。
呼んでも返事はなく、こたつの隅に、気配だけがひっそりとあった。
きっと、体調が悪かったんだと思う。
『……ぶん。来たよ』
耳は動かず、ぶんはただ、静かに丸くなっていた。
そうかと思えば、次の週は、入口まで出迎えてくれた。
とことこと歩いてきて、私の足元にぴたりと座る。
『ぶん……嫌われているかと思っていたんだよ』
その姿を見た瞬間、声に出して泣いてしまった。
それだけ、離れて暮らす選択をした自分を責めた。
ぶんは、言葉なんて使わない。
その背中が、目線が、静かに「たっちゃん」と呼んでくれているような愛情に満ちた雰囲気だった。
その日は、ぶんが自分のテントへと案内するように歩いていった。
まるで、「ここがぼくの居場所なんだ」と伝えるみたいに。
生まれた場所だから、覚えていたのかな。
自分の居場所、ちゃんと見つけたんだね。
そう思うと、少しだけホッとした。
私は何も言わず、そのそばにしゃがんだ。
涙が止まらなかった。ぶんは背を向けたまま、ただ静かにそこにいてくれた。
ぶんのやさしさだった。
そっとぶんの背中に手を置く。
骨があたってしまうほど痩せていたけれど、そのあたたかさが、胸の奥までしみていく。
『こんなに痩せて……』
——この選択は、本当に正しかったのか。
亜希子さんに預けるというかたちで、ぶんと距離を置いたこと。
苦しませたくなくて決めたはずなのに、それがこの子にとっての幸せだったのか。
私は、今でも迷っている。
答えなんて、きっと出ない。
だけど、私には治療なんてできない。
会いに行ってあげることくらいしか、できないんだ——。
それでも。
ぶんが、ほんの少しでも顔を上げてくれるなら。
そばにいる時間が、ほんの少しでも穏やかであるなら。
私はそのたびに、ぶんのしあわせってなんだろうと、何度も自分に問い直していた。
ぶんと離れた暮らしは、静かで、胸が痛む毎日だった。
その静けさの中で、私は泣くことしかできず、
それでも、そんな自分を少しずつ、無理やり受け入れようとしていた。
私は、ただぶんを想う日々を過ごした。
週に一度の再会で、ぶんの背中にそっと手を置き、
言葉ではない時間を、ふたりで静かに分かち合った。
——今日もまた、言葉のない会話が、そこにあった。

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