【ふたりといた時間】第44話:最後に飲んだ水

はなとぶんの時間

お風呂の蛇口から、ぬるま湯がとろとろと落ちていく音。
ぶんは、その水が好きだった。
冷たすぎず、熱すぎず。
ちょうどよくあたたかく、少し鉄分の味がするそのお湯を、ぶんはよく飲んでいた。

その日。
もしかしたら、ぶんが水を飲むかもしれない——
そんな小さな希望を抱いて、私はそっと蛇口をひねった。
小さなステンレスのボウルに、ぬるま湯を少しだけ汲み、
ぶんの前に静かに置いた。

——もう、いつ旅立ってもおかしくない。
そんな覚悟は、何度も何度も心の中で繰り返してきたはずなのに、
ぶんの小さな身体を見ていると、どうしても涙がこぼれてしまう。

食べると吐くようになったのは、私と離れて暮らし始めてから増えていった。
寂しかったのか、不安だったのか——
はなを看取ったときの記憶が、ぶんの姿と重なった。

それでも私は、『きっと大丈夫』と、あのときと同じように思い込みたかった。
『そばにいるよ、ずっと』と、自分に言い聞かせていた。

でも今、ぶんの前に置かれたぬるま湯を見ていると、
その心の支えが、音もなく崩れていくのがわかる。

そっと、ぶんが顔を動かす。
重たいまぶたを、ゆっくりと開けて。
ぬるま湯の匂いに気づいたのだろうか。

ほんの少しだけ、口を近づけて……ぺろっぺろぺろぺろ、と。
ぶんが飲んだ。

それが、ぶんが最後に口にしたものだった。

『ぶん、おいしかった?……』

私はそう声をかけながら、涙をこらえた。
大丈夫。安心して。
ここにいる、一緒にいるよ。
そう伝えることしか、私にはできなかった。

ぶんの耳は、もうどこまで聞こえていたのかわからない。
でも、私は信じていた。
ぬくもりや優しさは、きっと届くと。

目の前にいるのは、
お風呂場でお湯を飲んでいた元気な頃のぶんと、
今、静かに旅立とうとしているぶん。
ふたつの姿が、静かに重なって見えた。

流れるように静かな時間の中で、
私はただ、そっと手をのばして、ぶんの背に触れた。

やわらかくて、あたたかい。
この手のひらが覚えている限り、
ぶんは、ここにいる。

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