お風呂の蛇口から、ぬるま湯がとろとろと落ちていく音。
ぶんは、その水が好きだった。
冷たすぎず、熱すぎず。
ちょうどよくあたたかく、少し鉄分の味がするそのお湯を、ぶんはよく飲んでいた。
その日。
もしかしたら、ぶんが水を飲むかもしれない——
そんな小さな希望を抱いて、私はそっと蛇口をひねった。
小さなステンレスのボウルに、ぬるま湯を少しだけ汲み、
ぶんの前に静かに置いた。
——もう、いつ旅立ってもおかしくない。
そんな覚悟は、何度も何度も心の中で繰り返してきたはずなのに、
ぶんの小さな身体を見ていると、どうしても涙がこぼれてしまう。
食べると吐くようになったのは、私と離れて暮らし始めてから増えていった。
寂しかったのか、不安だったのか——
はなを看取ったときの記憶が、ぶんの姿と重なった。
それでも私は、『きっと大丈夫』と、あのときと同じように思い込みたかった。
『そばにいるよ、ずっと』と、自分に言い聞かせていた。
でも今、ぶんの前に置かれたぬるま湯を見ていると、
その心の支えが、音もなく崩れていくのがわかる。
そっと、ぶんが顔を動かす。
重たいまぶたを、ゆっくりと開けて。
ぬるま湯の匂いに気づいたのだろうか。
ほんの少しだけ、口を近づけて……ぺろっぺろぺろぺろ、と。
ぶんが飲んだ。
それが、ぶんが最後に口にしたものだった。
『ぶん、おいしかった?……』
私はそう声をかけながら、涙をこらえた。
大丈夫。安心して。
ここにいる、一緒にいるよ。
そう伝えることしか、私にはできなかった。
ぶんの耳は、もうどこまで聞こえていたのかわからない。
でも、私は信じていた。
ぬくもりや優しさは、きっと届くと。
目の前にいるのは、
お風呂場でお湯を飲んでいた元気な頃のぶんと、
今、静かに旅立とうとしているぶん。
ふたつの姿が、静かに重なって見えた。
流れるように静かな時間の中で、
私はただ、そっと手をのばして、ぶんの背に触れた。
やわらかくて、あたたかい。
この手のひらが覚えている限り、
ぶんは、ここにいる。

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