『よし、行こう』
朝起きてそうつぶやいたのは、誰に向けた言葉でもなかった。
お昼すぎ、曇り空の下。梅雨入りしたばかりのこの時期は、ジメジメと湿気がまとわりついて、この間までの過ごしやすさが恋しくなるような日だった。
ほんの数日前——
ふっと、頭の中に「八海神社」の名前が浮かんだ。
「また行きたいな」とか、「近くに用事あったっけ?」じゃない。ただただ、不思議と呼ばれた気がした。
「行かなきゃ」と思ったときには、もう準備を始めていた。
100キロ離れてる?そんなの関係ない。
高速は使わず、けれど道は不思議と空いていて、田んぼや小川、深い緑の山々を抜けた先にある神社は、想像以上に静かで、そして清らかだった。
「前に来たときも、こんな感じだったな……」
「鳥居前で拍手をすると、この龍神が鳴くんだよね」
鳥居をくぐると、空気の密度が変わる。葉の擦れる音、遠くの鳥の声、土の匂い。
人は何人かいたけれど、みんな入れ替わるように帰っていく。
まるで、私が来る時間が決まっていたかのように。
『ありがとうって、言いにきたんだよ』
最後に来たのは、もう何年も前のこと。
あのとき願ったことは、ちゃんと叶った。
だから今日は、「もう大丈夫」って、伝えにきた。
だけど、木々のざわめきにふと心が触れた瞬間、胸の奥にしまっていた思い出たちが、ぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
(そういえば、今年の三月にも来ようとして……入れなかったっけ)
一面の雪。鳥居の手前でただ立ち尽くして、引き返したあの日。
そして今、こうしてこの場所に立っている。
足元はぬかるみもなく、風もやさしい。
それなのに、なぜだろう。目の奥がじんわり熱くなって、涙が出そうになった。
『……はな、ぶん、どうしてるかな』
自然と、ふたりの顔が浮かんだ。
一緒にこの空気を吸わせてあげたかったな。
写真を何枚か撮って、深呼吸。
木々の隙間から空を見上げたとき、どこかで草を踏む小さな足音が聞こえた。姿は見えなかったけれど、不思議と怖くはなかった。
『ありがとね。また、来るよ』
帰り道
ふと友家ホテルのことを思い出した。
なんだろう、この懐かしさ。
あのとき感じた香りのようなものが鼻をかすめて、ほんの少し、帰るのが勿体ない気がした。
家に着くと、どこかスッキリした気分だった。
ああ、この子たちにも報告しなくちゃ。
神棚の前で、ちゃんとお礼を伝えてきたって。
なんてことのない日。
だけど、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がして——
私は湯を沸かしながら、もう一度、八海神社の風を思い出していた。
アクセス
・住所:〒949-7251 新潟県南魚沼市大崎3746
・営業時間:24時間
コメント