【ふたりといた時間】第42話:ぶんの静かな日々

はなとぶんの時間

ぶんのいない朝。
家の中は、いっそう静かだった。

ソファに毛玉は落ちていない。
押し入れを開けても、ぬくもりはどこにも残っていなかった。

——そこに、はなもぶんはいないのだと、改めて思い知らされる。

私は、週に1度、ぶんのいる亜希子さんの家へ通うようになった。
少しでも『そばにいるよ』と感じてくれたら、それだけでよかった。
会える時間は短くても、せめて私の声や匂いだけは、忘れないでいてほしかった。

『これ、使ってください』
私は、ぶんがよく甘えていたときに羽織っていたパーカーをそっと差し出した。
私の匂いが、しっかりと染み込んでいる服。

「ありがとう。きっと安心できると思うわ」
亜希子さんは優しく微笑みながら、パーカーを小さなベッドに敷いてくれた。

けれどその日は、ぶんは姿を見せなかった。
呼んでも返事はなく、こたつの隅に、気配だけがひっそりとあった。

きっと、体調が悪かったんだと思う。

『……ぶん。来たよ』

耳は動かず、ぶんはただ、静かに丸くなっていた。

そうかと思えば、次の週は、入口まで出迎えてくれた。
とことこと歩いてきて、私の足元にぴたりと座る。

『ぶん……嫌われているかと思っていたんだよ』

その姿を見た瞬間、声に出して泣いてしまった。
それだけ、離れて暮らす選択をした自分を責めた。

ぶんは、言葉なんて使わない。
その背中が、目線が、静かに「たっちゃん」と呼んでくれているような愛情に満ちた雰囲気だった。

その日は、ぶんが自分のテントへと案内するように歩いていった。
まるで、「ここがぼくの居場所なんだ」と伝えるみたいに。

生まれた場所だから、覚えていたのかな。
自分の居場所、ちゃんと見つけたんだね。
そう思うと、少しだけホッとした。

私は何も言わず、そのそばにしゃがんだ。
涙が止まらなかった。ぶんは背を向けたまま、ただ静かにそこにいてくれた。

ぶんのやさしさだった。

そっとぶんの背中に手を置く。
骨があたってしまうほど痩せていたけれど、そのあたたかさが、胸の奥までしみていく。

『こんなに痩せて……』
——この選択は、本当に正しかったのか。

亜希子さんに預けるというかたちで、ぶんと距離を置いたこと。
苦しませたくなくて決めたはずなのに、それがこの子にとっての幸せだったのか。

私は、今でも迷っている。
答えなんて、きっと出ない。
だけど、私には治療なんてできない。
会いに行ってあげることくらいしか、できないんだ——。

それでも。
ぶんが、ほんの少しでも顔を上げてくれるなら。
そばにいる時間が、ほんの少しでも穏やかであるなら。

私はそのたびに、ぶんのしあわせってなんだろうと、何度も自分に問い直していた。

ぶんと離れた暮らしは、静かで、胸が痛む毎日だった。
その静けさの中で、私は泣くことしかできず、
それでも、そんな自分を少しずつ、無理やり受け入れようとしていた。

私は、ただぶんを想う日々を過ごした。
週に一度の再会で、ぶんの背中にそっと手を置き、
言葉ではない時間を、ふたりで静かに分かち合った。

——今日もまた、言葉のない会話が、そこにあった。

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